ライフワーク

以前は撮影する側だったわたし。
いちビデオカメラマンとして見ず知らずのお客様の、しあわせの記録を遺すことを仕事にしていた時期がありました。在りし日のしあわせの記録。


自分の仕事の責任の重さに押し潰されそうな緊張の連続だったけど、好きで好きでたまらなかった。しあわせの瞬間を切り取り、映像に遺す作業は良いワインを仕込む作業のよう。今のしあわせの記憶を何十年か先にお客様が家族でご覧になり、懐かしんだり涙したり、思い出話に花が咲く光景を思い浮かべながら撮影していたあの頃。誇りを持って真摯に取り組んだ6年間でした。


今は仕事としての撮影はしないけど、不思議なご縁をきっかけに表現のツールとして被写体として写真に関わる機会を与えて頂けるようになりました。記録ではなく、表現としての写真。絵に例えたら写生ではなく抽象画を描くような感覚でしょうか。


始めた当初は頭の中の映像やひらめきをアウトプットするのが楽しく、イメージだけが先行して内面が足固め出来ていなかった。
当時はそれが精一杯だったし良いと思っていたけど今見たら中身が伴わないのがよく解る。自分の写真を見返すと『無為な自意識』が写真から見てとれます。


どうしたら綺麗なポーズになるだろう、とかもっとカッコいい写真にしたい、とか。表面に囚われて勘違いしている浅はかな自分。



そもそもカッコいい写真とか綺麗な写真って何? それなら綺麗なモデルさんに任せて自分がわざわざ写る必要なんてないし。人真似をしても劣化コピーにすらなれないのに。中身が伴わない外見だけに振り回されるのは愚かな事だとその時は必死過ぎてわからなかったのです。


自分が関わる意味を取り違えて悩んだり苦しんだり。悩み過ぎて最近まで撮影自体が恐怖に感じてしまうほど病んでしまっていたわたし。



だけどそんな数年間の苦しみも成長の為には通るべき道だったであろうし、無駄ではなかったと思う。相変わらず未熟ながらも今は少しだけ、別の角度からも物事を見たり感じたり考えたり出来るようになりました。


ダメで情無い自分と向き合うことは辛いけど、自分が自分を見捨てたらおしまいだから。高望みせず、根気よく、ゆっくりと。
自分の内面を見つめて何らかのカタチにして表現出来たら良いなぁと思います。


カッコいいとか、綺麗とか、そんな表面の綺麗事じゃなくて。もっと生々しい内面が垣間見える表現のツールとして写真と寄り添っていきたい。



多分それがわたしが写真に関わり続けることができる唯一の方法なんだなと。



そう考えるとわたしにとって写真もダンスも同じ。下手だけど踊り続けている理由も『表現』したいから。2017年に『鷺娘』を踊ってから明らかに自分が変わった。写真もダンスも絵を描く為の絵の具のようなものだったんだなとよく思うようになりました。


自分が本当にやるべき事と理想は同じとは限らない。邪魔な『執着心』を取り払うのに長い長い時間が掛かりました。わたしにとって綺麗な写真を残したい願望も、上手で魅力的なダンサーになりたい欲も適正からは程遠く、手放さなくてはならない事でした。


物事は本当にシンプルで、手放してしまえば自分と向き合う余裕が生まれる。


今更ながら内面の意識改革がやっと始まり、
これを今後どう突き詰めていくかが新たな課題です。



少しずつでも、前に。



なんて書きながら、何年か経ったら今書いている事が『浅はかだなぁ』と感じるのでしょう。それが生きていくという事だし、年齢を重ねるという事だし、成長するという事なのでしょうね。


『内面を表現する』事をライフワークに選んでしまったからには、恥を晒して生きる覚悟が必要です。

J'aime vivre librement

Rira Dancer & Model

0コメント

  • 1000 / 1000