追求すること

踊る事を仕事にして、色々思うこと。
バランスや立ち位置について悩んだり、追求してもなかなか見つからなかったり。


例えば、『ベリーダンス』を学び、仕事にさせていただいているけど必ずしもベリーダンスを知っていたり好きだったりするお客様の前で踊る訳ではなく、むしろアウェイに身を置く事が多い。


ベリーが好きな人やベリー仲間だと受け入れてられても(もちろん同業故の拒絶なんかもあると思うけど)、一般の人の心をどう揺さぶるかが目下のわたしの課題。


だから敢えて三味線奏者の方と組んだりバンドの皆さんと組んだりしながら『音楽のオマケ』にならずダンスを融合したユニットとして成立するバランスを模索してる。


異ジャンルの方と組む時は、同業の方と組むよりも掛け合いが難しい。例えばタブラ奏者ならベリーダンサーを見ながらの掛け合いが可能だけれどロックバンドや三味線だとそうはいかない。ダンサーを見ながらの演奏や掛け合いは無く、こちらが音の間合いを読み、寄り添っていく。前に出すぎてもバックダンサーになってしまってもダメで、音楽を聴きに来たお客様(当然ながらベリーダンスに興味がない方が多数)に主張しすぎず、曲のイメージや世界観、歌詞のストーリーを可視化する事に集中して踊る。


有り難い事に出演のご依頼を頂く機会が増えてきて、その度に自分が何を見せるべきか、何に寄り添うべきか考える。


例えば、『フェティッシュ』。
先日お誘い頂いたのだけど、短期間で結論が出せず今回は辞退させて頂いた。


ただ奇抜なメイクや衣装を纏えばいいものではない。表面だけすり寄っても痛いだけで誤魔化しにしかならない。観に来て下さったお客様はその世界観を期待されていて、偽物や紛い物は見抜いてしまう。先ずはリスペクトがあって、自分なりに最大限努力をして学ぶ必要がある。


何をもってフェティッシュなのか。そこに繋がる根っこを自分の中に探して、磨いて、自分なりの筋を通した世界観を見つけ出すべきだと思った。人真似や、好みの衣装を着たり、なんとなくのイメージで上辺だけ誤魔化しても中身が伴わなければお客様の心には届かないだろう。


わたしなりのフェティッシュは?
ベリーダンスとは違う観点から自分のセクシャリティを考えるのは初めて。多分いつもわたしが意識しているベリーダンスの観点よりもっと生々しく、もっと根底にあるものかもしれない。あるいはもっとファッションに寄ってディフォルメされた感じかもしれない。一度キチンと向き合って追求してみたい要素ではある。恐らくわたしの踊りに足りないものの1つだし、ベリーダンスから離れて自分を客観視する事は、一般のお客様の視点から魅力を探る大切な作業の1つでもある。


それを見つけて、どうカタチにする?どんな感情でどんな動きで、どんな音楽を使う?その世界観を表現する衣装は何?


この数日、ぐるぐる考えは巡るばかりで全くみつからない。だけど、自分の中に沢山の質問や課題を投げかける事はできた。



スタイルじゃなく、中身だ。
自分の中にあるものをカタチにしたらそうなるという辻褄。必然的にそうなるという説得力、動力みたいなもの。



それが見つかったら、わたしなりのフェティッシュなりゴシックなりが表現できる。



ゴシックは避けられない事情があり来月踊る事になってしまった。フェティッシュ同様、ここ数日ずっと考えているテーマだ。

『耽美主義は、社会や政治を主題とすることを重要視する美術よりも、美とは何か、どのようなものが美しいのかといった美学の方に価値観を置く芸術活動である。また、作品内に深い意味や意図を含ませたり解釈することより、もっと表層的な美に価値観を置く。』

〜某検索サイトより引用〜

色々調べ、自分なりに追求すると
わたしがやりたいのは『表層的な美』ではないと分かった。生々しい感情や美しくない自分の容姿だったりをゴシックの作法に則っていかに『耽美』に磨き上げるかがわたしのゴシック。美しくないものを咀嚼し、磨き上げ、美に昇華させるのがテーマ。



本来のゴシックとは違うかもしれないし、邪道かもしれないけど演らせていただくからにはわたしなりのリスペクトは尽くそうと思う。


難しい課題だし、苦しい部分もあるけれど、自分に無い物は創り出せば良いと思う。


自分に無い物だらけで途方に暮れて落ち込んでいた以前のわたしより、すこしだけ強くなれたような気がする。


様々な課題を与えて頂ける事は本当に有り難いですね。苦しみも、悩みも、経験も、全て自分の財産になっていく。

J'aime vivre librement

Rira Dancer & Model

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