切り花のいのち
切り花のいのちについて考える。
切られて咲く為にだけ大切に育てられ、
飾られて、散る前に捨てられる。
贈り物として、お祝いとして、癒しとして。
或いは死者を弔う為に。
切られていのちを断たれた花を想う。
幼い頃からずっと心に抱き続けていた花への想い。
散りゆくさくらの花びらに、
切られて咲いて捨てられる花に、
道端で踏まれた野の花に、
それをカタチにしてみたいと思ったきっかけがフラワーアーティストRisaちゃんとの出会いでした。
『切り花』を体現する
花の気持ちに寄り添う
器としてただそこに居る
2017年5月の作品。
実験としての試みでした。
切り花を通して
生きること死ぬこと
いのちの輪つなぎから外れること
存在する事の意味
今を生きること
たくさんの疑問や課題が自分に投げかけられます。
2019年4月30日。
平成最後の夜に2回目の実験。
散り際の傷んだ花を纏いました。
平成が終わろうとする数日前に浮かんだビジョンをどうしても試したくてお願いしました。
だけど予想とは違って、傷んで枯れかけたバラが写真では凄く美しく写りました。
花瓶に差せない程ぼろぼろで、髪に刺すのも危うい傷んだバラなのに。腐り、散る、最期の瞬間まで花の女王としての気品や優雅さは失わないんだなと感心しました。
ビジョンにあった、『壮絶さ』や『醜悪さ』のようなものは微塵も出せませんでしたが、実験としては充分興味深い結果でしたし、作品も良いカットが数枚撮れたのではないかと思います(まだ見ていませんが)。
わたしのイメージの核心は恐らく小林永濯の『九相図』のようなもので、花と自分の身体を使っていのちの経過を表現したいと思っています。九相図とは仏画の一種で、美しく横たわる遊女が死に、腐り、白骨となり土に還るまでを9枚の絵で表したもので、『もののあはれ』を表現していると言われます。
平成から令和へ、時代が移り変わる瞬間に作品の実験が出来たことは内面にも良い影響を頂けた気がします。『時の移ろい』が大きなテーマの一つなので。。
そういえば今日読んだ漫画も、大なり小なりわたしが表現したいテーマと似たような要素を含んでいました。
岡崎京子さんの『ヘルタースケルター 』。
写真家の蜷川実花さんのファンなので映画は見ましたが、原作は初めて読みました。
主人公りりこも切り花のような存在で、毒々しいほど美しく咲き誇ったが為に、枯れて捨てられ忘れられる事を恐れて足掻いて自滅していくストーリー。印象的な言葉やシーンが幾つかあり、今後の実験に活かせたら良いなと思いました。
切り花は傷んで枯れて腐って捨てられる。
造花やプリザーブドフラワーは枯れずに美しいまま。だけど切り花の美しさには到底敵わないし、枯れて散る様も美しく感じます。
枯れて散ってしまう寸前の花の最期のいのちの輝きをカタチにしてみたい。
実験はまだまだ続きます。
根底にある『死生観』のようなものは、多分わたしが物心ついた頃から自然の中に漠然と見て感じていたものかもしれません。それをカタチにしてダンスなり写真なりで表現する事がわたしのライフワークでは?と最近よく感じるようになりました。少しずつですが、自分の中に覚悟が出来てきたかも。
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