撮影よもやま話② 表現編。
こんばんは。Riraです。
写真で表現すること、とても難しいですね。
ダンスで美しく見えると自信のあるポーズでも、写真にすると何か違うとか
光源の位置で身体や顔の向きが限られてて動きに制限があるとか
普通のバランスと違う、少し不自然な姿勢やポーズを求められたりとか
たった一瞬の表情やカタチ(ポージング)で、内面からにじみ出るものを表現しなきゃとか。
ポージングで行き詰まったら表情も硬くなり、上手くいかない負のスパイラルで心はどんどん閉じて頑なになる。
前回のよもやま話①でも書きましたが、元々写真を撮られる事が苦手で何の知識も経験もなかったわたしはずっと『できない・わからない』負のスパイラルの中でもがいていました。
人のアー写を見て真似ても、自分が得たものじゃないから上滑りして違和感があったり微妙だったり。ポージングや表情より、心のありように問題がありました。
例えば、自分の中の絶対的な美のライン(バレエ的なポーズやバランス)に拘りすぎて頑なになってしまっているのに気付いていなかったり。
アドバイスや指摘を頂いても、頑なな頭では理解すら出来ず、ただただ落ち込んでマイナス思考に沈むだけ。
本当に辛く苦しく、何度も何度も撮影を辞めたいと考えました。
それでも未だ続けているのは、自分の中の『表現欲』があるから。ダンスでも写真でも、動きでも一瞬でも、自分の中にアウトプットしたい何かが常に揺れているからだと思います。
出来ない苦しみが弾けて、自分なりに何かを掴みかけたきっかけは2017年。『鷺娘』を踊った事でした。
『鷺娘』は歌舞伎や日舞で舞われる古典の名作で、人の娘の姿を借りた白鷺が人間の男性に恋をするけど、再び白鷺の姿に戻ってしまい道ならぬ恋で地獄に堕ちて苦しみもがき命尽きるストーリー。
わたしは偶然子供の頃に所属していたバレエスクールで日舞 花柳流の師範の先生がこれを舞われるのを見、いつか自分も舞ってみたいと思い続けていました。
『鷺娘』を舞うと決めたものの、中途半端な技術や表現が微妙過ぎてモヤモヤしたままなかなか進展せず…。
何度も何度も詞を読み、噛み砕き、自分の中の長年押し込めてきた感情を無理やり引っ張り出して晒す作業。
その中で、自分の中で激しい抵抗や葛藤があり、自己否定と自己嫌悪の嵐に苛まれました。
だけど舞台の前日のリハーサルでそれが爆発的に弾けて、半狂乱で泣き叫び…壮絶な『生みの苦しみ』の果てにやっと表現として現れました。
まだまだ未完の鷺娘でしたが
長唄と感情と身体が一体になって勝手に動かされているような不思議な感覚で、どんどん鷺娘の感情が溢れて来て泣きながら舞っていました。
鷺娘がわたしの表現の扉を開けてくれたような感覚で、これ以降写真にもダンスにも変化が現れました。
テクニック的には相変わらず『出来ない』苦しみはありますが、ステージでも写真でも『表現』する事への抵抗感は無くなり、曲や描いたイメージにするっと自分を投下出来るようになりました。
そして今後自分が追求すべきものの一つで、主軸になるべきものが『和の精神性』だと確信しました。
素敵なダンサーさんやモデルさんは数多おられて、憧れて真似をしたい人も沢山います。
だけど、自分とは違う。
自分が頑張っても彼女になれない。
生まれ持っているものや、特性が違う。
憧れやリスペクトは大切ですが、人真似にならない自分らしさの追求も大切。
わたしはまず自分を嫌ったり否定する事を止める事からのスタートだったので本当に遠回りで大変です。
鷺娘をきっかけに、自分の方向性が見え、和の世界を表現しようとする自分が少し好きになりました。
表現するという事は、先ず自分を受け入れて認める事からのスタートなんですね。
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